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2012年1月2日月曜日

猫鳴り 沼田まほかる

藤次・信枝夫婦の住む家の軒先に捨てられていた子猫。
彼らに育てられることになった猫は「モン」と名付けられその後20年の歳月をその家で過ごし、そして死んでいく。
猫を飼っている、または飼ったことのある人にはかなりきつい内容になっているがそれゆえ強烈に惹かれる物語でもある。

そしてこれは絶望や死を心に抱えた3人の人間と、それを時には包み込み、時にはあざ笑うかのように存在するモンの物語である。
モンの生きた20年という時間軸に沿って3篇の物語に分けられている。

はじめは捨てられていたモンと信枝の物語。
軒先に捨てられているモンを見つけた信枝は畑の方へ彼を捨ててしまう。しかし次の日、モンは戻ってくる。彼女はそれでも執拗にモンを捨てることにこだわる。
それは自分の子供がお腹の中にいるときに死んでしまい、そのことが彼女を追いつめ、そのかわりとしてあらわれたかのような子猫をかたくなに拒んでしまっているかのようだ。子供と子猫を同一視して、子供を失ったことが自分のせいだと思ってしまうことが耐えられないかのように。
やがて子猫を捨てた女の子がやってきたり藤次にほだされたりして子猫を探しに行く信枝。
藤次の若い大工仲間の浩市と子猫を探しているとき、猫の鳴き声を真似る二人の間に一瞬生暖かい生を感じさせるものが通い合う。子供を失い「死」に囚われ続けていた信枝の中に「生」を取り戻した瞬間だったのではないだろうか。

2編目は時間が進み、モンも成長し一番活発な頃の話。
ネグレクトかとも思われる少年、行雄が逃れようもない孤独と絶望の中でもがく様が描かれる。
ただここではモンはホンの一瞬しか登場しない。
しかしその一瞬にモンは行雄にしっかり見せつけるのだ。生きることはあがき続けること。そしてあがいてもはかなく散ることがあることを。
ブラックホールと名付けた「絶望」を感じてもがく行雄だが、そこから抜け出すべく事件を起こそうとしてもうまくいかない。
行雄に育てられることになった子猫。必死に生きようとして行雄にもなつこうとしていた矢先、突然死んでしまう。そしてその亡骸はモンがあっさりとかっさらっていくのだ。この世に存在することなんてしょせんそんなもんだと言わんばかりに。
少年が知りうる限りの小さな世界の中での彼の絶望する心は、大人の世界を生きる彼の父親の言動で一応救われることになる。
この父親もやはり何かを抱えて生きてきたのだが、それは明確には示されない。ただ何かがありそうな雰囲気をにおわせているだけだ。
人間が生きていれば、苦しみや悲しみ、辛いことが必ずあるものだ。それは少年の小さな世界でのことでも、彼の父親が生きる大人の世界でのことでも、世界の大きさが違えどそれぞれの世界での重みは同じなのだ。
孤独を抱える心は、同じものを抱える者の言葉によって少しずつ救われていく。

最後の1篇は死にゆくモンとそれを見守る藤次
2編目よりも更に時間軸が進み、すでに信枝は亡くなっておりモンも徐々にその命の炎が燃え尽きようとしている。
モンは自分がだんだんと衰えてきて間もなくその命も終わろうとしていることを受け入れ、抗うことなく淡々と日々の行動を繰り返していく。
だがそうした日々の行動もだんだんと出来なくなってきて、排泄行為さえ困難になってくる。
藤次はそんなモンの姿を見ながらも、その先にあるモンの「死」を受け入れられない。
モンの「死」、それは遠からずやって来る自らの「死」が重なっており、自分の「死」もまた受け入れられる準備が出来ていないのだ。
「死」を恐れるために徐々に弱っていくモンを自然に任せることが素直にできず、延命治療することとの間で考えが揺れ続ける。
そんな藤次に若い獣医は死を受け入れることが自然なことだと優しく話す。そしてモンは死ぬことを受け入れ、残りの生をいつも通りに過ごす姿を藤次に見せつける。まるで死は自然なことなのだと言わんばかりに。

最期まで抗わず、しかしその生を全うしたモン。
その様は関わる人に「生」とは何か、そして「死」とはなにかを、厳しく残酷に見せつけてくる。

猫飼いにとってはとても辛い描写が出てきてめげそうになってしまう。
でもそれは逆にモンという猫の生への執着を強烈に表しており、その強い生存力が関わる人に死生観を教えることを作者は表したかったのかもしれない。

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