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2011年2月27日日曜日

悪人 吉田修一

全編に渡って漂う息苦しくなるような焦燥感。

それぞれが持つ現状に満足できない焦り。

小さな嘘を重ね、友人に対して見栄をはる石橋佳代
実の母親を含め他者とのコミュニケーションをうまくもてず様々な思いを胸の内に押し込めていく。自分自身に苛立ちをおぼえるもののそれを解消する術をもたずギラギラしたものを内包している清水祐一。
紳士服量販店に勤め、若い頃にはいろいろと夢見ることもあったが日々の生活に流されいつの間にか年月を重ねあきらめと臆病さに染まってしまった馬込光代。
彼らは決して大きな望みを願い持つわけでなく、ほんの小さな幸せを願っているだけなのだ。
なのにその願いは掛け違ったボタンのようにどこかで違う破滅の方向へ向かうことになる。




執着、そして他者に向けられる怒り・恐れ
ついた嘘に、そして増尾圭吾という享楽的に生きる男に執着した佳代は増尾に捨てられ、その高いプライドゆえに傷つき、怒り、その矛先は清水祐一に向かう。
執着と拒絶。なにかにあまりに依存するがゆえに行動の針が極端に振れる様はあまりに悲しい。

母親と分かれ祖母と暮らしている清水祐一。
彼の存在、そして彼と祖母の描写が私の胸を締め付けるのはなぜか。彼に感情移入すればするほど、自分の中の黒いどろりとしたものが外に引きずり出されてくるような気持ち悪さがこみ上げてくる。彼を外から、第三者の目で見ているのではなく、「彼」そのものになって彼の内側にある、鬱屈した感情や悲しみを自分のことのように感じてしまうからなのだと思う。
これは文章がうまいのか、それとも私自身の心の内を清水祐一として表出させられてしまったためなのか。
また祐一逃亡後の祖母の孤独感が非常に重く伝わってきて私の心の中をかき回していく。

馬込光代のイメージは深津絵里ではなかったな。
読んでいてむしろ石橋佳代の方を深津絵里でイメージしていた。映画を観たわけではないので深津絵里がちゃんと馬込光代になっているのかもしれないが・・・
光代は日々の生活に流されてきてふと立ち止まった時、清水祐一と出会う。彼について行く事で彼女はどうしようもない方向に向かって行ってしまう。
それは彼と出会ったのが悪いのではなく、彼と出会ったタイミングが最悪なだけだ。二人はおそらく求めているものが同じだったに違いない。それは愛だとか恋だとかではなく、触れ合った手の温かみや抱きしめた時の安らぎやそのままでいられることの安心感なのではないだろうか。

石橋佳代を乱暴に三瀬峠に捨て祐一に殺害されるきっかけを作った増尾圭吾。
毎日を享楽的に生きる増尾だが、何か満たされない気分を抱え常に苛立っているように思える。
自分でも何か分からない未だ形にならないけれど求めずにはいられない「なにか」を求めるも掴みきれない苛立ちは、たまたまクルマに乗せた石橋佳代の依存し媚びるような態度によって爆発する。
その結果佳代は最悪の道を歩むことになるのだが、それは増尾が意図したことではない。三瀬峠にいた三人の苛立ちと気持ちのすれ違いが重なりそれがよりによって最悪の方向に向いただけなのだ。
増尾圭吾もまた「いま」の自分に息苦しさを感じている一人であり、置き去りにしたかったのは佳代ではなくそんな自分の苛立ち
だったのかもしれない。

祐一と光代の逃避行の行き着く先に希望は見えない。もがいて沈んでいく泥沼のようなものだ。二人ともそれが痛いほど分かっているだけに、今目の前にいるお互いの温もりを刹那的に求め合うのであろう。

物語の最後、逮捕される寸前、祐一は光代を”被害者”としてこの泥沼から救い出そうとする。連続絞殺犯として”悪人”となることでしかやさしさを人に表せない祐一の悲しみが伝わってくる。母親から金をせびっていたことを風俗嬢に告白した時、どちらも被害者になれない、と話した言葉に祐一の最後の行動が現れていると思う。

空は曇り薄暗く、見える景色はすべてモノクローム。
読み進んでいく頭の中では久留米の駅前も博多の街も呼子も樺島の灯台もすべてに色がなく、粒子の粗いモノクロームの映像が投影される。
願わくば映画もモノクロで撮っていて欲しかったがカラーだったのでちょっと残念。

基本的にこの物語はそれほどすごい展開があるわけでなく、こうした日本の逃避行物にはありがちな展開をたどっていく。単なる犯罪物と違うのは、この物語の登場人物の正負両方ある心の奥底を引きずり出し曝け出した先にみえるわずかな再生を描こうとしているところだと思う。

自分はそんな負の毒気に当てられてしまってひどくしんどい思いをしながら読んだわけだが、しんどい思いをしただけに登場人物の苦しい胸のうちも感じられてそれはそれで良かったのかも知れない。

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