田村を待つ間にそれぞれが心に引っかかっている過去の出来事がそれぞれの酔った時のつぶやきのように紹介されていく。
まずこの設定がなかなかうまい。
誰かを待っている間というのは、その待っている人間のことをとっかかりとして過去から現在までの各人のことに話題が転々としていくことは割合よくあることなのではないだろうか。
しかもすでに会も三次会にもなっておりそれぞれそこそこのアルコールが入っている状況だ。ある者は酩酊状態の中、自分の過去にある苦い思い出などが思い出されたり、またある者は誰かのことで胸の内にしまっていたことが酔った勢いでついつい口に出してしまう、ということも無きにしも非ず、ではないだろうか。
加えて登場人物の年齢がそれなりにそこそこの経験を経てきたけれどまだまだ若い、と思う気持ちを失ってはいない40歳くらいというのが絶妙だ。
ある者は若かりし頃の仕事に対する自分自身の姿勢だったり、ある者は自分よりはるかに若い男に対する消せない想いだったり、またある者は自分自身の女性に対するあまりな客観視過ぎる態度だったり、男女間の思いの違いだったりと他人から見れば過ぎたことをいつまでグチグチ言ってるんやろ、となることばかりだ。
でもこれが当人には忘れようにも忘れられない人生の一場面になっているんだろうなぁ、と思わせるのは読んでいる自分自身にも共感するものがあるためか・・・
このそれぞれの思い出話のジャンル(?)のちりばめ具合がうまいのだ、きっと。
読んでいる者、誰にでも(特に登場人物と同年齢くらいの者には)どこかしらあてはまるものがあるではないだろうか。そのせいで登場人物に感情移入しやすくついつい物語にのめり込んでしまうのではないか。
作者のそんな意図まで疑ってしまうほど憎らしいちりばめ具合なのだ。
人にはそうした思い出というか消したくても消せない、本当は消したくない出来事がいろいろあるだろう。
中には掘り起こしたくないつらい記憶もいくつかあると思う。私自身もそんな出来事がいくつかあり、以前読んだ本ではそのことが嫌な感じに掘り起こされてちょっとしんどい思いをしたことがあった。
でも今回、この本を読んで同じように昔のことをいろいろと思い出さされてしまったけれど、なんか「チャオ!」での場面の中に自分もいてそこでみんなの現在(いま)の会話に参加していると思えると不思議としんどい思いをすることはなかった。
きっと、過去の出来事は過去のこと。今の彼らの姿を見ているから、今の自分をそこに投影できるからつらさはないのだろう。
読んでいる私もマスターのように彼らの言葉を自分の胸の中のノートに書き残して、あとからそれを読んでほくそ笑むにちがいない。
『おまえ、井上鏡子だろう』
同じ本に収録されていた『田村はまだか』連作の番外編のような作品。
おそらく先の作品と同じクラス会の一次会に参加していた男が過去に気にかけていた井上鏡子という女に二度も偶然に再会するも二度共彼女だということに気付くのが遅く、気づいた時にはすでに会えない状況になっている。
これはやはり過去の自分の躊躇したことが後悔しても今となっては取り戻すことはできない、ということを言っているのだろうか。
そうだとしたらちょっとこちらの物語は切ないなぁ・・・
この主人公の男もクラス会に行っても忘れられているような、「どうでもいい存在」なのだ。
その「どうでもいい存在」の男がそこから誰かにとって必要な存在となりえるかもしれないと思える相手、井上鏡子に次に会える機会を待っているのだがそれは叶わないことを読者は知らされてしまう。
思いでは思い出、過去のことは過去のこと。
それは分かり切ったことなのだが、それでもそこに思いが残り何かのきっかけがなければ先に行けないとしたら男にとって次の井上鏡子との再会がそれに当たるのだろう。
次がないことは男は知らない。
次はないけれど、ないことを知らない男は次を待つことで先に進んで行けるのかもしれない。
でも読んだ私はちょっとつらい気分で話を終えたのだけどね・・・
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