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2011年8月2日火曜日

契約 明野照葉

人の人生の頂点はいったいいつなのだろう。
もちろんその頂点の大きさ、やって来る時期は人それぞれなのだろうが・・・

たまに人生の良いことと悪いことはプラスマイナスゼロ、すなわちマイナスな悪いことがあったとしても人生の終焉までにはそれを相殺するだけのプラスの良いことが起きる、と人が言っているのを聞くことがある。

まぁそう思ったほうが悪いことが続いたときに先の希望を持って生きていられるし、あまりに良いことが続いても自分を戒めることができるのだろうな。


では良いこと・悪いこととはどんなことを言うのだろうか。
天にも昇るような思いをすることが良いことか?
死にたくなるような血反吐を吐く思いをすることが悪いことか?

それはひとそれぞれがそのことをどう捉えるかによるのではないか。
ほんの些細なことでも幸せに感じたり嫌な思いをしたりもするし、幸福感の中にいても嫌悪感を感じる瞬間はあるかもしれないし、ひどい状況の中にあってもちょっとしたやすらぎを得られる瞬間があるかもしれない。

人生の中で小さな起伏が繰り返され、その中のどれかにはきっと一番大きな山が含まれているのだろう。



で、この物語の主人公は小・中学校時代は勉強も出来、スポーツも得意で皆からも好かれ人気者だったが今は仕事も私生活もうまくいかず悶々とした日々をただ過ごすだけの34歳の女性、牧丘南欧子だ。
過去の栄光に縛られ、そこからなかなかうまく先に進めないという人間はたくさんいるようで、その栄光が大きければ大きいほど、現在をもがくことになってしまう。

「自分はこんなものではない、もっと出来る人間だ」

そう思い込んでしまうとなかなかその泥沼からは這い上がれないものだ。

そうした心理に巧みにつけ込まれ彼女は罠に陥り、蜘蛛の糸に絡め取られた虫のようにがんじがらめにされていく。


彼女が一時は(それも罠の一つなのだが)輝きを取り戻すもどんどんと貶められていく様はたしかにかなり怖い。じわじわと迫り来る恐怖の焦りの描写にググっと入り込んでしまう。

でも、逆に罠をかける方、桃子が前面に登場してからなんだか急に話が色あせてきてしまったのは私の読み方の問題なのだろうか・・・


明野照葉は女性の怖さを描かせたら天下一品らしいが、この作品に限っていうとこれは「女性の怖さ」ではなく、桃子が怖いのだ。
女性ということではなく、彼女はサイコなのだから。
彼女のキャラクターがそうした形で出てきたためにそれまでの何とも言えぬ不気味さをはらんだストーリーが普通のホラー物になってしまったので、その点が少し残念だと思う。


小学校が南欧子と同じクラスだった桃子は酷いイジメを受け続ける。
教材も服もかばんも心までもボロボロにされクラスメイトからの悪意を一身に浴び続けた桃子の目には皆からの好意を浴び続ける南欧子の存在は、彼女にとってこの世で自分が得られないものの全てであり自分を貶める存在の象徴であったに違いない。

桃子には南欧子の存在を消してしまわなければ自分は先には進めない。
これは南欧子とは真逆の、過去の恐怖と屈辱に囚われてそこから抜け出せなくなっているのだ。
そこから抜け出すには自分の心の中に巣食っている南欧子を排除する必要がある、ということを脅迫的に思い込んでしまっているのだろ。
そしてその思いは祖父の言葉によって更に増幅してしまうことになる。


結局、南欧子も桃子も過去に縛られたままどこにも行けずにいた似たもの同士だったのかもしれない。ただそれが起因するところがまったくの反対なことだったというだけなのだ。

そしてふたりともその過去を自分自身が打ち消し、何かを期待するのではなく、自分自身の足で新たな一歩を踏み出さなければそこから抜け出せないことを気づかなければ結局はほんとうの意味でのプラスマイナスゼロにはならないのだ、きっと・・・

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