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2011年11月7日月曜日

美女と竹林 森見登美彦

これは京都は桂にある竹林の伐採を目論んだ竹林好きの登美彦氏が右往左往、縦横無尽に暴走し妄想しまくるエッセイなのか???

とにかくだらだら、うだうだと一向に進まない伐採といかに登美彦氏が竹林好きであるかが伐採作業と同じくだらだらと書き連ねられているものである。



それにしてもあいかわらずの妄想ぶりだ。
作者が放った一の矢、初めの一言に自らどんどんと言葉をつないで妄想世界に入り込んでいく。乗りツッコミではなく、乗り妄想だ。妄想の連鎖なのだ。


知り合いの家が桂に竹林を持つことを知った登美彦氏(作者の別人格として描かれている)は、卑屈な思惑と己の欲望を満たすために竹林の伐採を始めようとする。

ところがこれまで計画性というものがまったくなかった登美彦氏。なかなか思うように伐採が進まない。しかも忙しいことにかこつけて、なんだかんだと言い訳をつくって、言葉とは裏腹に竹林を訪れようとしないから余計に進まなくなってしまう。

結局人の手も借りて、しかも何年もかかって、ようやくそれらしい恰好にはすることが出来た。


でもそこまでいくまでに言い訳から始まる言葉の羅列とそれが徐々に変化していき妄想世界へ入ってしまうから、支離滅裂な内容になってしまう。

暴走に次ぐ暴走の果て、ついにはMBC(モリミ・バンブー・カンパニー)などという世界的大企業のトップになるという妄想世界を作り上げるに至っては、もう何がしたかったのかさえ読み手もわからなくなってしまった。


こんなに支離滅裂で寄り道し放題で帰ってこられないような話、まるで筒井康隆の小説のようでもある。
でも、筒井作品と決定的に違うのは、森見氏の妄想行きは(やっとこさでも)帰ってくることだ。筒井作品が計算されてどんどんとディープな世界に分け行ってしまうのと同じように、森見作品は計算された自虐的表現と一人ツッコミによって、逆に現実世界に帰ってくるのだ。

いや、ホントは計算なんてされてないのか?
いつも奇跡的・神ががり的思いつきでなんとか大団円を迎えることが出来ているのではないだろう。

ちゃんと計算されていると思いたいのだが・・・

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