やってくれるよ、まったく!!!
筒井康隆、齢77の超実験的小説『ダンシング・ヴァニティ』
読み始めて戸惑い、どこに連れて行かれるのか皆目見当もつかず、読み進むうちに混乱し、読み終わる頃にはすっかり憔悴してしまう問題作。
中学生の頃から筒井氏の短篇集を漁るように読んでいたのだが、訳あってしばらく筒井氏の作品から完全に離れていた(まっそんな大層な"訳"ではなく、単に他に興味が移ったってだけなのだが・・・)。
ウン十年ぶりに御大の作品、『パプリカ』を読んだ時、夢の中なのか現実なのか、その境界線があいまいになり非常に混乱した世界が描かれ、「おぉ!筒井康隆健在なり!!!」と思ったものだ。
でも、その世界の混乱ぶりはかなりのモノで、久々に味わう私には筒井ワールドに浸って楽しむ前に戸惑って慣れるのにちょっと時間がかかってしまった。
で、この『ダンシング・ヴァニティ』なわけだが、これは強烈な作品だ。おそらくかなりな筒井ファンでもこれには戸惑ってしまったのではないだろうか。
ましてや知らずにこれを手にとって読み始めた筒井バージンな人に至っては、精神構造の組み換えが行われてしまうような強い衝撃を与えてしまうのでは、とついつい心配までしてしまう、それほど奇想天外・驚天動地な作品になっている。
主人公の美術評論家が独自の視点から書いて発表した浮世絵論がベストセラーになり、その一家のその後を描いていく、という基本的な物語の設定は一応されてはいる。
主人公の美術評論家が独自の視点から書いて発表した浮世絵論がベストセラーになり、その一家のその後を描いていく、という基本的な物語の設定は一応されてはいる。
だが、その美術評論家の話は普通には進んでいかない。時間軸はまっすぐ一本に流れず何度も何度も同じ場面を繰り返しながら変節していく。
例えば冒頭、「主人公が原稿を執筆していると、家の前でケンカをしていると妹が部屋にやってくる。家族を奥に避難させ、窓から覗くとヤクザと大学生がケンカをしているらしい」という一連の話があるが、それがある時点を区切りにほぼ同じ内容のものが何度も繰り返し出てくる。しかもケンカしているのがヤクザ同士だったり兵隊だったり相撲取りだったりしていくのだ。そうして何度か同様の場面を繰り返してすこしずつ少しずつ先へと進んでいく。まぁそれが”先”なのか”後”なのかさえよくわからないのだけれど・・・
そしてこの小説全体がそうした構成で成り立って(?)いるのだ。
御大は音楽も自ら演奏するだけにクラシックの変奏曲やジャズなどからヒントを得たのか???
なんか頭の中ではラベルの『ボレロ』が流れているのだが・・・
御大は音楽も自ら演奏するだけにクラシックの変奏曲やジャズなどからヒントを得たのか???
なんか頭の中ではラベルの『ボレロ』が流れているのだが・・・
そんなリフレインの無限世界に加えて、夢の中の世界が現実世界に入り込んできて何でもありの世界になっていく。傭兵になって匍匐前進・地雷原突破を繰り返しいつの間にか部隊長になっていたり挙句には「匍匐前進」と言えばすべての人をべシャッと地面に伏せさせることができるようになる・・・
もうこのあたりを読んでいる時には思考回路も停止してしまい、ただ繰返し変奏していくこの物語に身を委ねることしか出来なくなっていた。
夢や現実、現在や過去の全ての事象を取り込んで何度も同じように繰り返されていくものの、だんだんと主人公は年老いてゆく。
そして死を前にして彼は理解する。この繰り返される世界の意味を。
とは言ってもはっきりしたことは私にもよく分からないが、一番受け入れやすい解釈としては、これは死を間際にした主人公のこれまでの人生が走馬灯のように現れてきており、それぞれの人生における分岐の可能性を見ていたのではないだろうか。でもいくら可能性を探ったとしても結局は自分が今横たわっているベッドの上に戻ってきて満足いく死を迎えることは出来ないのだと悟る。
そう、これは最後の最後、死を目前にして死を身近に感じることでいかに生をまっとうするのか、ということを我々に訴えたかったのではないだろうか。
死は誰にでもやってくる。しかし人は往々にして死を感じて生きているわけではない。死を感じなければ生を意識して感じることはないのである。生きていくことはあらゆる可能性の分岐点を選択していくことだ。そしてその選択はすべて何らかの死を選択していることなのだ。
満足いく死を選択できるのは、満足いく人生をいかに選択していくか・・・
至極当たり前のことなのだが、突き詰めればやはりそういうことなのだ。
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